世にあふれる「べき」と向き合う話

 らんぴです!あと少しで2024年が終わる!
 というわけで今回は、新作「コーヒーって、甘いですか?」に関連することで書きそびれていたお話。

 ーー「好き」の形も、「苦い」の定義も、いろいろだ。

 このキャッチコピーについてです。

「好き」の定義

「コーヒー好きなら、豆から挽くべき」
「コーヒー好きなら、毎日飲むはず」

コーヒー界隈では時々こんな声が耳に入るのですが、これはコーヒーに限ったことではなくて、

「ファンならライブには通わなきゃ」
「実写映画を肯定するやつなんてファンじゃない」

 こういう「好き」という定義に条件が課されるのを「べき論」とか「べきべき論」と勝手に呼んでいます。このべきべき論を目にする度に、何となくもやーっとするんですよね。

 例えば遠方に住んでいたらライブに通うのは容易ではないですし、金銭面・体力面もろもろで人により事情は異なります。
 「〜しないとファンとはいえない」といわれても、「じゃあしなきゃ!」と行動に移せる人は多くないと自分は思っていて、むしろ「好き」に条件を科すことで「自分にはそれできないからファンにはなれないな……」と離れていく人の方が多いのではないかと思っています。

 「好き」であることに嘘はないはずなのに、好きを否定されることは悲しいし、それが望まれない形だとしても、せめて思いを否定するのはやめてほしいなーとよく感じます。

ゲーム界隈の「べき」

 で、これはゲーム界隈、制作界隈でもよくあることで。

  • 制作者は自信を持つべき、誇るべき!
    謙遜、卑下はしちゃいけないし、自作を「拙作」と呼ぶのも自作を下げることになるからよくないよ〜
  • フリゲに批判はいらないよね。作者は褒められたいんだから、ポジティブな感想だけでいいんだよ!
  • 好きな作品には感想を送るべし!送るときも恥ずかしがったり謙遜なんてしないで、堂々と送って!

 これらは善意で発信されることが多いですが、それに賛同しない人もいたり、それを発端にトラブルになることもあり、そういうのを見ると心が痛みます。

 らんぴもこの活動を始めてしばらくは、「制作者はこうあるべき」という考え方を持っていて、それが当たり前だと思っていました。
 しかしその発信の仕方を間違えて、人を傷つけてしまったこともありました。逆に、自分以外が発する様々な「べき」、そのほとんどの「べき」に、自分は当てはまらないということに気づいて、自分の考え方が、「好き」が間違っていると言われているような、もどかしかったり、悲しかったりする感覚になったこともありました。
 「べき」というのは、そこに当てはまらない人を否定することになるんだなあと、自分が傷つく側になって知ったんですよね。

 例えばフリゲ作者でも批判OKな人もいるし(うちもそう)、性格上感想を書くのが苦手な人、堂々とするのが苦手な人、さらには自分を卑下しないと落ち着かない人もいて、実際「それはダメだよ!」と正解を押し付けられ続けて、逆に疲れて何もかもを止めてしまった人も知っています。

 こういった経験を経て、なるべくその人の「好き」を否定しないよう、自分が持つ「べき」と周りが持つ「べき」について、向き合い方を考えるようになりました。以下、それについて簡単に述べてみます。

人によって考え方が違うことを受け止める

 批判NG論を例に挙げると、「制作者は褒められたいから作ってる!」という人もいれば、それ以外に価値を見出している人もいます。うちに限って言うと、「批判も参考にしたい」「批判とそうでないものの基準は曖昧」「何よりそれによって感想を書くハードルが上がって感想来ないのが一番困る」そして「賛否関係なく、自作品がどう受け取られているかを知りたい」といった明確な理由があることから、批判も受け付けています。

 また自己肯定感云々についても、「自分を冷静に分析した結果そう思う」と確固たる根拠があったり、その人の人生での経験だったり、環境だったりでその人の思考傾向も異なり、それを否定することが本人に苦渋を強いることだってあります。あと謙遜については、日本人あるあるの表現で、そこまで深い意味もなかったり。

 人によって価値を感じる部分は違うこと、その人にもその人の人生や経験があること、それを念頭に置いておきたいです。

 そもそも、自己肯定感低かろうが誰だって作品を出せるのがアマチュア創作の世界であり、そのおかげで多様な作品が生まれるというアマチュアの良さがあるのだと個人的には思うので、考え方に差があったとしても「色々な人がいて当然だよねー」とポジティブに捉えるようになりました。

「べき」とうまく付き合う

 「べき」論の問題は、主語が大きいという点にあると思います。何かを主張するときに主語を広げる理由としては、

  • 自分の意見として発信するより、界隈の総意としたほうが安心する。自分の考えに自信が持てる
  • モチベーションが上がる。自分を鼓舞できる
  • 自分の意見が、本当に界隈の総意だと確信している
  • 善意、正義感

などがあると思います。

 しかし先述の通り、そこに当てはまらない人は必ず出てきます。

 ただ重要なのは、例えば批判を避けたい人の意思と、そうでない人の意思、どちらが正解不正解はないということです。アマチュアの世界であるからこそ、双方尊重されるものだと個人的には考えます。

 なので発信するときは、なるべく主語を大きくせず「私の作品は批判OK!」と書くよう心がけるようになりました。自分の過ごしやすい環境を作りたいけど、界隈全体を変えるのではなく、自分に関わる範囲だけ変える、主張する方が、周りを巻き込まないし、結果実現もしやすいなーと思います(界隈全体を変えようとしたとて、大体実現しない)。

 逆に自分が他の人の「べき」論を目にしてモヤっとしてしまったときは、「主語大きいけど『この人は』こういう考えなんだな〜」と受け取り側が主語を相手のみに変換するとか。

 ただ「べき」論自体は、人のモチベーションを高めたり、各々がそれについての意見を発信するきっかけになったりと、いい部分もあります。実際、「こうあるべきだ!」と発信するのは楽しいし、自分の考えを見つめ直す機会にもなります。それにその「べき」が本当に正しいときもあります。

 この記事自体、「『べき』を使わずにどう表現しようか」と考えまくって、結局は『べき』という内容になっているでしょうし、「自分の今の気持ちを表すには『べき』という言葉が一番しっくりくるんだよなー!」と思う時もあります。なので「べき」という言葉に捉われず、「その人(自分)はどう考えているか」を大事にしていければ、心を楽に活動できるんじゃないかなと思いました。

「コーヒーって、甘いですか?」内での「べき」

 らんぴが喫茶店を渡り歩く中で、マスターによっていろんな「べき」論を聞かされましたが、作品内ではあえて「べき」という表現のまま書いています。自分の店に自信を持ちすぎるマスターだったり、特に5話の『浅煎りの美味しい淹れ方』なんて、水温は熱い方がいいだの熱すぎない方がいいだの、人によってポリシーが違いすぎて主人公も翻弄されていますが、それがそのマスターのコーヒーに対する愛の形なんだなと、肯定的に捉えてあえてそのまま描きました。

 毎日飲まなかろうが、浅煎りが苦手だろうが、缶コーヒー好きだろうが、「コーヒーが好き」と思うなら「コーヒーが好き」。そうやって自分の「好き」も誰かの「好き」も一旦は肯定して、自分の「好き」を突き詰めたい。それが「コーヒーのおいしさを伝えたい」以外に込めた、本作品のもう一つのテーマでしたとさ。以上!

 もし興味があったらプレイしてみてください〜

コーヒー限定!グルメなノベルゲーム

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